田舎の学問より京の昼寝

ある本を読んでいたら「田舎の学問より京の昼寝」という諺に出会った。恥ずかしながらこの諺を知らなかったのだが、意味を調べてみるとなかなか面白かった(字面通りなのだが)。

要するに「都会にはいろいろなもので溢れているから、田舎で一生懸命書物を勉強するよりも、街を見て歩くだけでもいろんな知識を多く深く学べるものだ」という趣旨である。田舎で大学受験勉強をし、その後都会で学び、そして今地方に暮らしている身としては、なるほど共感できる諺である。高校生の頃、大学を目指してこれと信じた参考書を勉強していたが、大学に合格し「京」に出で様々な人やことに触れ、こんな世界があったのかと驚いたものである。高校時代に比べて明らかに勉強しなかった大学時代だが、いろんな人や風景、文化に出会った大学時代の方が明らかに知性が刺激された(だから都会の方が地方より良いということでもない)。

さて、この諺で感じ入ったのは、地方よりも都が知性を刺激する知的文化に溢れているという主張よりも、「京で昼寝をする(人の)心の余裕」である。地方で過ごした高校時代を思い返してみると、知力をつけるため必死になっていた。頼るものが参考書しかなかったから、一心不乱に参考書を勉強した。知力を身につけるためには、それが唯一の方法だと思っていた。ところが、「京」での学びはガツガツしていないかった。それは、ゆっくりとした時間の中のこってりとした学びであった。そのように学ぶことを好しとされた。今思うと、地方にいた高校時代は

  • 知識は知力や教養をつけるきっかけに過ぎないこと、
  • 知識だけを入れても仕方がないということ(教養があることと知識が豊富であることは異なること)、
  • 知力や教養をつけるためにはゆっくりじっくり考えることが必要であること

をまったく分かっていなかった。狭い世界に住む、知識偏重主義者であった。

「田舎の学問より京の昼寝」という諺は、知力・教養を身につけるには、知的な文化環境だけでなく、心のゆとりが重要であることを考えさせてくれる。

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