卒業研究を始める学部生へ

※ この文章は主に静岡大学情報学部行動情報学科の4年生に向けて書いたものです.静岡大学に関する箇所を読み飛ばせば,他の大学の学部生が読んでもある程度問題ないと思います.

大学における学修活動において,卒業研究は最も重要な活動です.これまでみなさんが履修されてきた講義や演習は正解が決まっており、そこにどのようにたどり着くかを学ぶものでした。しかし、卒業研究は「問いそのものを自力で設定し,自力で回答する」活動です.卒業研究をうまく進めるためには、これまで皆さんが採ってきた授業や演習に対するアプローチとはまったく異なるアプローチが必要となります.多くの人がそのことに戸惑いを感じることでしょう。しかし、その戸惑いを解消しようとするところに、大きな学びがあります.

卒業研究を開始するにあたって,みなさんに知っておいて欲しいことがあります.この文書はそれらを伝えるために作成しました.必ず一度目を通しておいてください.また,文書の末尾にアンケートを用意しました.各人の卒業研究のテーマおよび来年度の活動のあり方を検討するために活用しますので,必ずアンケートにご回答ください.

読み物1「卒業研究に取り組む意味」

すでに述べたように,卒業研究は大学の学修活動におけるハイライトであり,教育的にも最も重要な活動です.研究室に入るまでの3年間(静大なら2.5年間),みなさんは約100単位に相当する講義や演習を履修してきたと思います.大抵の授業は(少なくとも教員は知っている)正解がある問題を扱っており,それらを解くための知識や技術を教授することを目的としていました。しかし,卒業研究は授業とは大きく異なります.卒業研究は研究活動です.研究は授業とは異なり,答えはありません.答えは教員すら知りません.それどころか問いすらも設定されていません。極言すれば、研究の本質は「問いを探す活動」という点にあります.そして,設定した問いに対して自分なりの主張(回答)をうち出すことが,研究の目的となります.このことは,研究経験ゼロの学部生が取り組む卒業研究であっても変わりません.

卒業研究にある程度真剣に取り組めば,いろいろなチカラが身につきます.例えば、研究テーマあるいはその周辺の専門知識です.設定したテーマを通じて実践的に学ぶことになるので,これまでの受け身の授業よりも活きた知識やスキルを学ぶことができるでしょう.しかし,卒業研究で身につけられる(身につけるべき)最重要のチカラは,問いを設定し解決策を考えるチカラ(コンセプチュアル・スキル)です.研究室選びの時にも話題に挙げましたが、コンセプチュアル・スキルを集中的に鍛えられる社会でほぼ唯一の場所、それは大学研究室です。コンセプチュアル・スキルに加え、卒業研究で鍛えられる(鍛えるべき)もう1つの重要なチカラとして,作文能力が挙げられます.うちの研究室では、卒業論文のページ数として25ページ以上を要求しています(これは理科系の卒業論文としては標準的な数字で、人文社会系はもっと多いです).大抵の学生は,人生でこれほど長い文章を、自分の言葉で書いた経験はないと思います.文章を書くには言語能力,論理的思考能力,編集能力が必要となります.それらの能力は頭を使って文章を書くことで鍛えられます。書かなければ鍛えられません。幸か不幸か、社会に出た後は,学術論文のように長文でかつ表現・内容の精度が求められる文章を書く機会はないでしょう(物書きの仕事に就かないかぎりは).

はっきり言いますと,認知負荷が高い仕事に就かないかぎり,大抵の人にとってコンセプチュアル・スキルや作文能力を鍛える最大にして最後の機会は,大学研究室における研究活動になると思います.卒論・修論研究を終えてしまえば、この種のスキルを集中的に磨く機会はほぼないと思ってください。ほぼ大半の学生にとって,人生におけるコンセプチュアル・スキル,基本的な作文能力の最大値は,大学卒業・修了時点で決まるといっても過言ではありません.この意味において,卒業研究が重要であることを理解してください.

読み物2「卒業要件」

読み物1「卒業研究に取り組む意味」では,学修の観点から卒業研究の重要性について述べましたが,大抵の学生にとっては,「卒業要件」として卒業研究は重要なのかと思います.では,卒業研究の合格基準はどうなっているのか?

ご存じかもしれませんが,どこの大学でも卒業・修了要件を記したディプロマポリシーというものが設けられており,その中で卒業研究に関する考え方も記されています.静岡大学のディプロマポリシーはこのURLから確認できます.以下はその抜粋です:

静岡大学は、教職員、学生の主体性の尊重と相互啓発の上に立ち、平和で幸福な未来社会の建設への貢献をめざす「自由啓発・未来創成」の基本理念を掲げ、教育・研究に携わっている。このような基本理念のもとで、国際感覚と高い専門性を有し、チャレンジ精神にあふれ、豊かな人間性を有する教養人を育成することが本学の教育目標であり、下記に示すそれぞれの資質・能力を身につけていることを学位授与の条件とする。

  • 専門分野についての基本的な知識を習得し、これを社会の具体的文脈のなかで活用することができる。
  • 外国語を含む言語運用能力、情報処理、キャリア形成等の基本的スキルを身につけている。
  • 多様性を認め、幅広い視点から物事を考え、行動することのできる国際感覚と深い教養を身につけている。
  • 主体的に問題を発見し、自らのリーダーシップと責任のもとで、様々な立場の人々と協同して、その解決にあたることができる。

情報学部は、人間の営みと情報技術が調和した豊かな社会の実現を目指す情報学の教育研究を推進し、21世紀の情報社会で先導的役割を果たすことのできる、豊かな専門知識、深い教養と情報倫理、及び総合的な実践力を有する人材の育成を教育目標としており、下記に示すそれぞれの資質・能力を身につけていることを学士(情報学)の学位授与の条件とする。それぞれの資質・能力の評価にあたっては明確な合否判定基準を定め、シラバスなどで公開する。またそれぞれの資質・能力とカリキュラムの関係を、カリキュラムマップ等を活用し明確化する。

  • 情報科学、行動情報学、情報社会学についての豊かな専門知識を身につけている。
  • 深い教養と情報倫理を有し、国際社会や地域社会で活躍できるコミュニケーション能力、及び社会感覚を身につけている。
  • 情報化をめぐる状況を認識し、そこで解決すべき社会的・技術的課題を的確に発見・理解する論理的思考力を身につけている。
  • 情報化をめぐる社会的・技術的課題について、その解決策を提案・実施・実現する総合的な実践力を身につけている。

以上が静岡大学情報学部の学士号取得(学部卒業)にかかるポリシーです.重要な点は,卒業研究(および修了研究)は学術的成果が出せたか否かではなく,ディプロマポリシーが達成されたかが重視されます.これは学術的成果の量・質が求められる博士課程の研究とは大きく異なる点です.

実際には,卒業研究の合格基準は指導教員によって異なります.山本の研究室においては,卒業研究の合格基準は上記ディプロマポリシーに完全に準拠します.ディプロマポリシーの各項目の達成のしやすさについては,各学生の能力だけでなく卒業テーマにも依存してきますので,一概に言うことは難しいです.しかし,優れた研究者であれば,良い研究を行うには時間をかけることの大切さを知っています.それゆえ,卒業研究を通じて良い成果が出なかったとしても,ある程度の努力をしていれば,学生が一生懸命研究に取り組んだとして評価します.また,上でも述べたように,一生懸命研究に取り組むことで専門知識,コンセプチュアル・スキル,作文能力が鍛えられるので,自然とディプロマポリシーの項目が満たされることでしょう.

ちなみに,我が国の大学教育は単位制度を基本としており,1単位あたり最低45時間の学修が求められています(参考資料).静岡大学においては卒業研究の単位数は6と設定されていますので,(1年間の)卒業研究にかけるべき学修時間は最低270時間となります.これは,夏休み,春休み,冬休みを除き,学修は10ヶ月行われるとすると,1ヶ月あたり27時間,1週間あたり約6〜7時間の学修時間を最低限確保する必要があることを意味します.6〜7時間ということは,週に4,5コマ.1日あたり1コマです.270時間というラインは,文科省の省令から算出されたものですので,最低限このラインを満たせば,卒業研究に取り組んだとは言えるでしょう.その上で,1日1コマという学修時間が多いと考えるか少ないと考えるかは,学生の皆さんに委ねます.

読み物3「大学院博士前期課程(いわゆる修士課程)進学のすすめ」

拒否する理由がなく,かつ経済的に問題がないのであれば,大学院(修士課程)に進学することをお勧めします.山本は一般的な大学教員とは異なるキャリアパスを通ってきましたが,とはいっても一大学人ではあります.そのため,以後の話は幾分バイアスがかかっていることでしょう.また,将来どのように働くか・働きたいか,どんな人生を歩むか・歩みたいかは人それぞれです.ですので,この話はこの文書で1回,口頭でも最大1回しか言わないことにします.

山本が学生に大学院修士課程への進学を勧める理由は主に3つです.1つ目の理由は「選択肢を増やす」ためです.おそらく静岡大学情報学部行動情報学科の学生の大半は,大学院進学は選択肢に入れておらず,進路は就職一本に定めていることでしょう.就職を主たる進路として検討している理由が,複数の選択肢を比較検討した上で導き出された結論であれば言うことはありません.しかし,実際はそうでないことが大半です.学科,周囲の友人もしくは家族の中で「学部で卒業して就職をする(大学院修士課程に進学しないこと)」という雰囲気ができてしまっており,先入観で「大学院進学はなし」という結論を下してしまっている人が多いと予想します.

客観的な事実を記しておきます.中央教育審議会大学分科会(文科省の組織)の資料によると,工学系の学部生で修士課程に進学した人の割合は全国平均で30〜40%です(平成16〜28年).理学系の学生だと,修士課程への進学率は40%程度です.一般に情報学は工学や理学にまとめられることが多いので,全国の情報学系の学生の大学院進学率は30〜40%だと思ってよいでしょう.1980年代くらいまでは大学は一部の人が行くところと言われてましたが,それも今は昔.今や大学全入時代です.それどころか,既に時代は変わり,大学修士課程は研究能力だけでなく専門的な職業に必要となる能力を養成することを目的とするようになってきています(参考資料).なかなか外のコミュニティに飛び出す機会のない大学生にとっては,通っている大学や両親の文化的影響を多分に受けてしまいがちです.行動情報学科はできて間もないこともあり,中途半端な雰囲気になってしまっている点については,教員側にも責任があると思います.ですが,「大学院は一部の例外的な学生がいくところ」と思っていたとすると,それこそが少数派の考え方になりつつあることを頭の片隅に置いておいてください.

2つ目の理由は,修士課程に進学して研究活動をすることで,自らが鍛えられるからです.これについては「卒業研究に取り組む意味」で記した通りです.研究活動に長く取り組めるということは,それだけ専門知識,コンセプチュアル・スキル,言語能力など,一般社会ではほぼ鍛えるチャンスがない能力を鍛えることができます.特に後者2つは専門学校の卒業生との違いになります.正直なところ,みなさんも実感しているかもしれませんが,学部生活の4年間で学べる専門知識はたかが知れています.社会に出てすぐに使える専門知識ならば,実践的かつ即効性の高い学習に力を入れている専門学校や高等専門学校(いわゆる高専)のほうが余程身につくと思います.では,なぜ大学で学ぶのか.専門学校・高専と大学の差は,既に述べた「コンセプチュアル・スキル,言語能力の体得」にあります.大学生はそこで差をつけられなければ,専門学校・高専卒の人と変わらない,あるいはそれ以下になってしまいます.正直な話,ある専門分野における即戦力という意味においては,専門学校・高専卒の方が大卒よりもレベルが高いかも知れません.また,同じ成果が期待できるのであれば,企業は大卒よりも専門学校・高専卒の方を優遇するでしょう.なぜなら,大卒生よりも賃金が安くコストパフォーマンスに優れるからです.より質の高い仕事をするために自身を鍛えることができるという点でも,修士課程進学をお勧めします.修士課程に進学すれば,学会参加などを通じて様々な大学や企業の人と接する機会も増えるでしょうから,自らの鍛錬だけでなく価値観の醸成にもつながります.

3つ目の理由は,将来性に関することです.学部卒で就職するのと修士卒で就職するのでは社会経験に2年の差がでます.この2年をどう捉えるか.学部卒にせよ修士卒にせよ,一般企業で働くことが目的であるならば,早く就職して社会に馴染んだほうが大学にいるよりも学ぶことが多い,そっちの方が将来的にはよいと考える人もいるでしょう.しかし,統計的には大学卒と大学院卒で生涯賃金に大きな差が出ることが明らかになっています.過去に内閣府が行った調査では,大学卒と大学院卒で生涯賃金の差が4000万円程度があることが分かっています(参考資料).年収についても,就職後1〜2年間は大学卒で就職した人の方が大学院卒よりも(2年分の先行経験があるため)高いものの,その後は大学院卒の年収の方が平均的に高くなっていきます.もちろん,この調査はあくまで相関分析にすぎず,大学院進学したからといって必ず生涯賃金が高くなるとは断言できません.もともと高い生涯賃金を稼げる優秀な学生が大学院に進学するといった可能性も否定できません.ですが,「卒業研究に取り組む意味」でも述べたように,研究活動に取り組むことによって,問題解決能力や問題発見能力が鍛えられます.個人的には,大学院に進学することは生涯賃金を高めるためにも,仕事のレベルや範囲を増やすためにも有用であると考えています.

以上の理由より,大学院修士課程への進学をお勧めします.学部で就職すれば,早く社会に出られるし,お金も稼ぐことができます.わざわざ2年もプラスでしんどい研究をする必要もないかもしれません.やりがいのある仕事よりも家族や趣味を大事にしたい,それもまた人生です.修士課程進学を選ぶか就職を選ぶかは,みなさんの自由です.先入観を取り払い,十分に考えた末の結論であるならば,それを尊重します.仮に学部で卒業するという意思決定をした場合、卒業研究テーマの難易度設定や指導方法が多少変わることがあります。しかし,人そのものに対する僕の評価が変わるということはありません.卒業研究の合格基準は,あくまで設定した研究課題を通じてディプロマポリシーの項目を達成できたかどうかとします.

なお,大学院博士後期課程(いわゆる博士課程)への進学はお勧めしません.博士課程への進学および研究者として生きるにはそれ相応の覚悟が必要になるからです.